• 2024年9月9日

同じ表紙で異なる本

 渋谷神泉こころのクリニックです。

 同じ本でも、出版社や販売戦略によって、異なるデザインの表紙になることは多々あります。しかし、異なる本で同じデザインの表紙というのは、なかなか目にする機会がありません。

 そんな中、偶然にも「身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法」(べッセル・ヴァン・デア・コーク著、柴田裕之訳、紀伊國屋書店、2016年)「非色」(有吉佐和子著、河出書房新社、2020年)の二冊が同じ表紙デザインであることを発見しました(前書は、原著のデザインも同様です。)。

 気になって調べてみたところ、この表紙絵は、アンリ・マティスによる版画集『ジャズ』に収録された「イカロス」という作品でした。

 マティスは、20世紀を代表するフランス人画家で、パブロ・ピカソ、マルセル・デュシャンと並ぶ20世紀の三大アーティストの一人であり、「色彩の魔術師」と呼ばれています。 純粋な色彩の効果を生涯にわたって探求し、それまでの伝統的な写実主義とは一線を画して、形態の単純化と大胆な変形、そして鮮やかな色彩による絵画表現を確立しました。マティスのいう「色彩」とは、自然に倣った色彩や、理論的な色彩学ではなく、感覚や直感による画家自身の感情を表すものであり、鑑賞者の心に働きかけるものであったとされています。この色彩効果を強調するために、形はどんどん単純化され、ついには「面」になりました。こうして「色」と「形」を追求する中、晩年の作品形態は、それらを同時に扱うことのできる「切り絵」に発展しました。

 『ジャズ』は、マティスによる切り絵による挿絵本です。20点の切り絵のカラー印刷に、マティス自身の筆跡による文章を付して、1947年に刊行されました。文章と挿絵を交互に配した、あたかも中世ヨーロッパの装飾写本のような構成です。

 この「イカロス」という作品に付された文章は、「学業を終えた若者たちに、飛行機での大旅行をさせて、雲海の上に広がる無限の空で、自由なひと時を感じてほしい。」といった意味のようです。

 「イカロス」は、蜜蝋の翼により空を自在に飛べるようになったものの、太陽に近づき過ぎたため、熱で翼が溶けて墜落してしまうというギリシア神話中の若者の名前です。マティスによる制作は1944年頃、当時の時代背景を考慮すると、第二次世界大戦中に命を落した若き飛行士達への鎮魂歌なのかもしれません。ちなみに、ドイツのPELIKAN社からも「イカロス」を題材にした筆記具が発売されており、やはり悲哀を感じさせるデザインになっています。なお、この筆記具は、華麗なる万年筆物語(白岩義賢著、グラフィック社、2003年)で紹介されています。

 少し話が逸れましたが、同じ表紙をもつこれらの本は、いずれも読み応えのある良書です。特に「非色」は昭和38年から昭和39年(1963〜1964年)にかけて連載されたものですが、現在にも通用する内容だと思います。

 私の場合は、先に「身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法」を読んでいたのですが、その後、駅前の古書販売イベントで同じ表紙絵の「非色」が目に入り、購入した次第です。

 有吉佐和子氏の他の作品としては、大学時代に薬理学の教授から勧められ、「恍惚の人」「華岡青洲の妻」を読んだことがありました。しかし、「非色」はこの表紙でなければ、おそらく手に取ることもなかったでしょう。こうした偶然が意外な展開や思わぬ気づきにつながるのだと思うと、不思議な気持ちになりますね。

 それでは、また!

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