- 2026年10月1日
- 2026年9月11日
30.武州玉川
渋谷神泉こころのクリニックです。
院内に月替わりで展示している浮世絵について、院内にもバックナンバーを含めた解説を置いております。とはいえ、あらかじめ解説をお読みいただいたうえで、来院時にじっくりと鑑賞したいとのご意見も頂戴しましたので、展示作品については、当ブログにも解説を掲載しております。
令和8年10月は、「武州玉川」です。

「武州玉川」の「玉川」とは、現在の多摩川のことです。「武州」は武蔵国を指しますので、「武州玉川」は、武蔵国を流れる多摩川という意味になります。
多摩川は山梨県東部に源を発し、東京都を流れて神奈川県との境を経て東京湾へ注いでいます。江戸時代には多摩川にいくつもの渡し場が設けられており、橋の少なかった時代には、人や荷物が川を渡るための重要な交通路となっていました。
また、多摩川は古くから和歌に詠まれた「六玉川」の一つ、「調布の玉川」としても知られています。
「六玉川」とは、歌枕として知られた六つの玉川、すなわち、宮城県の「野田」、東京都の「調布」、滋賀県の「野路」、京都府の「井手」、大阪府の「三島」、和歌山県の「高野」を指します。これらは古くから和歌や絵画の題材となり、浮世絵でもたびたび描かれてきました。

「調布の玉川」といえば、玉川で布をさらす女性たちの姿がよく知られています。ところが、北斎の「武州玉川」には、そうした名所としての玉川を象徴する人物や風俗はほとんど描かれていません。そこに広がっているのは、人家もほとんど見えない、静かな川辺の風景です。
さて、本図を一見すると、満々と水をたたえた多摩川と、その彼方にそびえる富士という、非常に単純な風景に見えます。
しかし、画面をよく見ると、北斎は近景・中景・遠景を巧みに組み合わせています。
近景には、荷物を背負わせた馬を引く人物が描かれています。画面の手前に人と馬を置くことで、私たちが立っている場所と川との距離が意識されます。
その先に広がる中景には、多摩川の流れが大きく横たわり、柴を積んだ船が一艘浮かんでいます。そしてさらにその奥、霞の彼方に富士が姿を現します。
つまり、人馬のいる近景、多摩川の中景、富士を望む遠景という三つの層が、画面の奥行きをつくっているのです。
とりわけ印象的なのが、画面中央を大胆に横切る川の流れです。川は斜めに画面の奥へと伸びていき、その流れに沿って船が進むことで、見る者の視線も自然に遠くへ導かれます。そして、その視線の先に富士が現れます。
富士は実際の距離感からすればかなり大きく描かれていますが、そのことによって、かえって画面全体に強い存在感が生まれています。
この作品でもう一つ注目したいのが、多摩川の水面です。
水面には細かな波が無数に描かれていますが、その形は一つとして同じではありません。北斎が水の動きをよく観察し、それを線の変化によって表現していることが分かります。
さらに、水面の細かな波には「空摺」という技法が用いられています。空摺とは、絵の具を使わず、版木から紙に圧力を加えて紙の表面に凹凸をつける表現で、現代のエンボス加工のような技法です。色ではなく、光の当たり方によって波が浮かび上がるため、実際の水面のきらめきを思わせる効果があります。
すみだ北斎美術館の解説の解説によると、この空摺という技法は後摺では省略されることが多く、現存する大半の「武州玉川」には見られないようです。当院に展示している作品は復刻版ですが、水面にはこの空摺が施されています。
ところで、この作品をよく見ると、少し不思議なところがあります。
川の向こうにあるはずの船が、手前にいる馬よりも大きく描かれているのです。また、富士も実際の距離に比べて非常に大きく描かれています。現実の遠近法だけを考えれば、これらはやや不自然です。
しかし、北斎はこうした「現実には少し不自然な大きさ」をためらわずに用いています。大きく描かれた船は、川を渡っていく動きをはっきりと示し、その先にある富士へと視線を導いていきます。
つまり北斎は、現実の風景をそのまま写しているのではなく、見る者の視線が最も美しく流れるように、風景の大きさや位置を組み替えているのです。
その効果をさらに強めているのが、川と富士の間に大きく広がる「すやり霞」です。
霞によって中景の細かな風景が大胆に省略され、その向こうから富士が突然姿を現します。普通なら、遠くの景色を細かく描き込むことで奥行きを表現しようとするところですが、北斎はむしろ途中の景色を消してしまいました。
その結果、手前の川と遠くの富士との距離が、一気に縮まったように感じられます。
川面の細かな波、船、馬、霞、そして富士。それぞれを写実的に描くというより、必要なものだけを残し、その大きさや位置を大胆に組み替えることで、一つの風景として成立させています。
単純な風景に見えて、実は極めて計算された風景。それが、「武州玉川」の面白さではないでしょうか。
ところで、北斎が描いたこの場所は、実際の多摩川のどこだったのでしょうか。

多摩川には江戸時代、多くの渡し場がありました。川の流れは大雨などによって変化し、それに伴って渡し場の位置も変わったため、現在の地図上の一点に本図の場所を特定することは容易ではありません。
もっとも、府中宿と日野宿の間、甲州街道の途中の風景とされる河村岷雪『百富士』の「玉川」や、現在の東京都狛江市付近からの風景とされる斎藤月岑らによる『江戸名所図会』の「多磨川」も、本図と同じように、多摩川を手前に置き、その彼方に富士を望む構図となっています。こうした類例も踏まえると、本図についても、東京富士美術館や文化遺産オンラインの解説にあるとおり、調布あたりの渡し場から見た風景であると考えられます。

多摩川という大きな川と、その彼方にそびえる富士。そして、その間に漂う霞。
北斎は、実際の風景をそのまま再現するのではなく、そこから必要なものを選び取り、組み合わせ、見る者の視線を一つの流れにまとめています。
そう考えて改めて作品を見ると、何気ない川辺の風景の中に、北斎の巧みな構成力が見えてくるのではないでしょうか。
お楽しみいただければ幸いです。
それでは、また!
