• 2026年11月1日

31.穏田の水車

 渋谷神泉こころのクリニックです。

 院内に月替わりで展示している浮世絵について、院内にもバックナンバーを含めた解説を置いております。とはいえ、あらかじめ解説をお読みいただいたうえで、来院時にじっくりと鑑賞したいとのご意見も頂戴しましたので、展示作品については、当ブログにも解説を掲載しております。

 令和8年11月は、葛飾北斎の「穏田の水車」です。

 「穏田(おんでん)」とは、現在の東京都渋谷区神宮前付近、原宿駅前から明治神宮を背にして表参道を見たときの右手あたりに位置する地域です。穏田の地名の由来には、徳川家康が江戸に入府した際に連れてきた隠密衆に与えた土地であるという説や、年貢を免除された「隠れた田」に由来するという説があるようです。

 現在では原宿や表参道として多くの人が行き交う場所ですが、江戸時代には江戸の郊外にあたる農村地帯でした。当時の穏田には渋谷川(穏田川)が流れ、その水を利用していくつもの水車が設けられていたといわれています。本図で男性たちが登ってくる坂は渋谷方面へ通じる坂であり、かつては明治神宮や新宿御苑方面からの湧水が渋谷川に合流するなど、水田耕作にも適した土地であったと考えられます。

 本図には、その穏田の水車を中心に、そこで暮らす人々の姿が描かれています。

 画面の手前では、籾などの穀物を担いで運ぶ二人の農夫が描かれています。その近くでは女性が水を使って作業をし、子供は亀を連れて遊んでいます。後方には田植えを待つ水田が広がり、その彼方には富士が姿を見せています。

 現在の原宿からは想像しにくい光景ですが、当時の穏田は、川と水田が広がる農村でした。本図には、穀物を運び、水を利用し、子供が川辺で遊ぶという農村の日常とともに、そこで暮らす人々の生活を支える水車が描かれています。

 しかし、本図でとりわけ目を引くのは、精密に描かれた水車そのものに加え、その周囲を流れる水の描写ではないでしょうか。

 水車の輪の中を運ばれていく水、輪からあふれ落ちる水、落ちた水が立てるしぶき、水車の回転によってかき回される水、そして水路を流れていく水。北斎は、同じ「水」でありながら、場所によって異なる動きを見せる水を、さまざまな線や形によって描き分けています。

 水は常に形を変え続けるため、その一瞬の姿を絵の中にとどめることは容易ではありません。北斎はここでも、水の動きをよく観察し、その瞬間ごとに異なる形を捉えようとしているように見えます。

 一方、その激しく動く水とは対照的に、画面の彼方には富士が静かにそびえています。

 穏田は富士の名所として知られた場所ではなく、本図と同じように穏田を富士とともに描いた作品も多くはありません。その意味では、北斎は富士の名所として穏田を選んだというよりも、農村の水車と、そこを流れる水の動きに強い関心をもっていたと考えられます。

 ところで、本図の水車には少し興味深い点があります。

 描かれている水車は、高い位置に設置され、水車の下を流れる水を利用して回転する「下掛け式水車」と考えられています。しかし、そうした構造であれば、水車の上部に水を湛えるような描写にはならないため、本図の水車には構造上の矛盾があることが指摘されています。

 ただし、北斎が水車の仕組みを知らなかったとは考えにくいでしょう。北斎は『北斎漫画』でも複数の種類の水車を描いており、水車や水の動きを観察していたことがうかがえます。

 そう考えると、この「矛盾」も、北斎が単純に実物を写した結果ではなく、画面としての面白さや、さまざまな水の表情を描くことを優先したものと考えることができます。北斎は、現実の風景をそのまま再現するのではなく、必要なものを選び、それぞれの位置や形を組み替えることで、一つの絵として構成しているのです。

 実際、本図の中心にあるのは富士ではなく水車です。水車を中心に人々の生活と水の動きを描き、その先に富士を置くことで、激しく動くものと、動かないものが一つの画面の中に並べられています。動的な水と、泰然とした富士。その対比が、本図の大きな魅力となっています。

 こうして見ると、「穏田の水車」は、単に江戸時代の農村風景を描いた作品というだけではありません。北斎は、変化し続ける水の姿を捉えながら、その背後に富士を置き、さらに水車を中心に人々の暮らしを描いています。そこには、動き続けるものと、変わらずそこにあるものとが、一つの画面の中で共存しています。

 現在では暗渠となっている渋谷川も、かつては穏田の農村を流れ、その水が人々の生活を支えていました。そして、この土地もまた、水の流れと同じように大きく姿を変えてきました。

 ここで、もう一つ「動力」という観点から本図を眺めてみたいと思います。

 北斎が生きた19世紀前半は、江戸の農村で水車が利用される一方、海外では蒸気機関が実用化され、蒸気船や蒸気機関車が登場し始めた時代でした。北斎は、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトをはじめ、海外事情に詳しい知識人とも交流があり、オランダ東インド会社からの注文を受けて日本の風俗を描いたともいわれています。そのため、黒船来航前から、北斎が外輪船をはじめとする海外の情報に触れていた可能性も指摘されています。

 こうした時代背景を踏まえると、本図に描かれた水車も少し違って見えてきます。水車は単なる農村風景の一部ではなく、水の流れという自然の力を回転運動に変え、穀物を挽くなど、人間の仕事を助ける動力装置でした。江戸時代の人々にとって、水車は身近な「機械」の一つだったのです。

 水の力を回転運動に変える水車と、興味深い共通点をもつものが、幕末に日本へやって来た外輪船です。外輪船とは、船体の側面や後部に、水車のような大きな羽根車(外輪)を備え、それを回転させて進む船のことです。ペリー艦隊の蒸気船も、石炭を燃料とする蒸気機関で外輪を回し、さらに帆も併用して航行していました。下図は、ペリーが日本を訪れた際、艦隊に所属していた黒船のうち、第1次来航(1853年)の旗艦であるサスケハナ号と、第2次来航(1854年)の旗艦であるポーハタン号を描いたものです。いずれの船も、船体中央付近に大きな外輪を備えていることが確認できます。ちなみに、黒船来航については、日本財団図書館(電子図書館) 船の科学館のサイト内、「資料ガイド4 黒船来航」に詳述されています。

 水車が水の流れを利用するのに対し、蒸気船は蒸気機関の力で外輪を回転させます。仕組みは異なりますが、自然の力などを動力に変え、人間の仕事や移動に利用するという点では、両者には共通するところがあります。

 もちろん、北斎が「穏田の水車」を描いたときに、その後の近代工業社会まで予見していたわけではないでしょう。しかし、本図を眺めていると、自然の力を動力に変え、人間の仕事を機械に担わせるという発想が、すでに江戸の農村の風景の中にあったことに気づかされます。同時に、蒸気機関を実用化し、蒸気船などを発展させていた欧米と、当時の日本との工業力の差についても、思いを巡らせることができます。

 北斎が亡くなった1849年以降、穏田周辺の風景も大きく変化しました。周辺には代々木練兵場や明治神宮が設けられ、かつての田園地帯は次第に姿を変えていきました。戦後には一帯が接収され、ワシントンハイツとして占領軍将校らの住宅地となりましたが、1964年には日本に返還され、東京オリンピックの舞台となりました。その後、さまざまな文化を受け入れながら発展し、現在では若者の街として知られる原宿となっています。

 かつて水車を回していた渋谷川も、現在では暗渠となり、その姿を地上から見ることはできません。土地の姿が大きく変わった現在、かつて農村を流れていた水と、その水を利用して動いていた水車に目を向けると、外輪船や蒸気機関へとつながる「動力」の歴史とともに、この場所が歩んできた長い時間の流れも感じられます。

 「穏田の水車」は、かつての原宿の風景を伝える作品であると同時に、変化し続ける水の一瞬の姿を捉え、遠くに静かにそびえる富士との対比の中に描き出した、北斎の観察力と構成力を楽しむことのできる一図でもあります。

 現在の原宿を歩きながら、かつてこの場所を流れていた水と、その水を利用して暮らしていた人々の姿を想像してみるのも、この作品の楽しみ方の一つかもしれません。

 お楽しみいただければ幸いです。

 それでは、また!

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