• 2026年7月1日
  • 2026年6月29日

27.相州箱根湖水

 渋谷神泉こころのクリニックです。

 院内に月替わりで展示している浮世絵について、院内にもバックナンバーを含めた解説を置いております。とはいえ、あらかじめ解説を読んだうえで、来院時にじっくりと鑑賞したいとの御意見も頂戴しましたので、展示作品については、当ブログにも解説を掲載しております。

 令和8年7月は、「相州箱根湖水」です。

 本図は、現在の芦ノ湖越しに富士を望んだ作品です。富士を挟んで左には三国山、右には駒ヶ岳と思われる山が配され、いずれも箱根山を構成する峰々です。芦ノ湖は、箱根火山の活動によって形成されたカルデラ湖であり、外輪山に囲まれた独特の景観を呈しています。

 箱根は古来より東国と西国とを結ぶ交通の要衝であり、江戸時代には東海道随一の難所として知られていました。歌川広重が『東海道五拾三次』「箱根 湖水図」で、険しい山道を進む大名行列によって旅路の厳しさを描いたのに対し、北斎は本図で、そのような往来の気配を、あえて画面から遠ざけています。

 画面には、人影ばかりか動物の姿すら見当たりません。湖畔には箱根神社の社殿がひそやかに置かれ、その向こうには箱根外輪山の稜線越しに冠雪した富士が姿をのぞかせています。湖面は波立つこともなく、樹木も風に揺れる気配を見せません。自然界のあらゆる動きが静止したかのような、深い静寂が画面全体を包んでいます。

 この作品の不思議なところは、仮に小さな人物や一羽の鳥を描き加えただけでも、この絶妙な均衡が崩れてしまいそうな点にあります。北斎は、あえて生命の気配を極限まで排除することで、湖と山と空だけから成る、現実を超えた静謐な空間を作り上げたのでしょう。

 類似した静謐な雰囲気を持つ作品としては、甲府盆地と富士山麓とを結ぶ御坂峠から河口湖へ下った先で、富士を望んだ「甲州三坂水面」が挙げられます。こちらも湖面と富士を主題とした作品であり、波ひとつない水面に映る逆さ富士が強い印象を与えます。しかし、「相州箱根湖水」と比較すると、その性格はかなり異なっています。

 「甲州三坂水面」では、広大な湖面の中央に小舟が一艘だけ浮かび、静寂の中にも人間世界の気配が残されています。また、北斎特有の遊び心や構成上の仕掛けも顕著です。たとえば、上部に描かれた実際の富士山は、木々が青々と茂る「夏の富士」である一方、水面に映る逆さ富士は雪を戴く「冬の富士」となっています。さらに、本来なら対称となるはずの逆さ富士の位置も、実際の富士から意図的にずらして描かれています。加えて、実際の御坂峠からは、このように河口湖全体と富士山を同時に見下ろすことは難しいとされています。つまり北斎は、現実の景観を忠実に再現するのではなく、「峠を越えた瞬間、湖面に逆さ富士を見出した驚きと感動」を、一枚の画面へ再構成したのでしょう。

 これに対し、「相州箱根湖水」では、そのような意匠上の工夫は比較的抑えられています。画面は徹底して静寂へと収斂し、湖、霞、富士、そして社殿が、ほとんど呼吸を止めたかのような均衡の中に配置されています。北斎が同じ「湖と富士」という題材を扱いながら、一方では視覚的な構成の妙を、他方では宗教的ともいえる静謐を描き分けていたことは、非常に興味深い点です。

 また、画面に大きく用いられている霞も重要な要素です。柔らかな霞の帯によって湖岸、山並み、富士が緩やかに区切られ、奥行きと静けさとが同時に演出されています。このような霞の表現には、大和絵や琳派に見られる日本的な空間表現との共通性も指摘されています。西洋的な遠近法のみならず、日本的な余白や装飾性を巧みに融合させている点も、本図の大きな特徴といえるでしょう。

 さらに、本図では色彩の抑制も印象的です。北斎は、当時ヨーロッパから伝来したベロ藍(プルシアンブルー)を巧みに用い、その濃淡によって湖、山並み、空に連なる深い藍の階調を生み出しています。澄んだ湖面の青に対して、周囲には杉と思われる木々の濃緑が点在し、画面に落ち着いたアクセントを与えています。藍と緑、そして霞の薄紅とが調和することで、画面全体に幻想的で厳かな気配が漂っています。

 とりわけ、手前の箱根外輪山に半ば隠された富士は、雄大な姿を誇示することなく、静かな風景の一部として溶け込んでいます。『冨嶽三十六景』の中でも、これほどまでに「静」を主題とした作品は珍しいといえるでしょう。

 箱根は古来、山岳信仰の地でもありました。芦ノ湖畔の箱根神社は、奈良時代に万巻上人(まんがんしょうにん)によって創建されたと伝えられ、源頼朝や徳川家康など、武家からも篤く崇敬されてきました。本図の静謐な世界には、単なる風景描写を超えて、霊地としての箱根が醸し出す空気感までも感じさせる、北斎の表現の深さがうかがえます。

 お楽しみいただければ幸いです。

 それでは、また!

渋谷神泉こころのクリニック
精神科・心療内科
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