- 2025年7月1日
15.江戸日本橋
渋谷神泉こころのクリニックです。
院内に月替わりで展示している浮世絵について、院内にもバックナンバーを含めた解説を置いております。とはいえ、あらかじめ解説を読んだうえで、来院時にじっくりと鑑賞したいとの御意見も頂戴しましたので、展示作品については、当ブログにも解説を掲載しております。
令和7年7月は、「江戸日本橋」です。

本図は、現在の東京都中央区の日本橋川に架かる日本橋周辺の風景です。
日本橋は、東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道の起点であり、交通の要衝でした。また、日本橋の南側には、幕府が法度や禁令を告示する高札場や罪人の晒場、北側には魚市場がありました。
そのため、日本橋周辺は常に賑わいのある江戸の繁栄の象徴として、錦絵でも定番の名所でした。構図は、手前に日本橋を描き、遠景に江戸城と富士山を添えるのが定型で、歌川広重も同様の構図で何点もの日本橋の作品を残しています。

北斎も、本図では近景から日本橋、江戸城、富士の三点を並べたお馴染みの構図を踏襲しています。しかし、あえて橋梁構造は描かず、橋上の賑わいと欄干の擬宝珠で日本橋の存在を示唆し、その雑踏すらも極限まで下方に押しやっている点が独創的です。
当時、江戸の橋で擬宝珠が設置されていたのは、日本橋の他には京橋と新橋だけでした。そのため、擬宝珠には、ここが日本橋であることを示す記号的な意味もあります。通行人の中では、やたらとこちらを向く顔が多い気もしますが、これは橋の存在に注意を向けさせる工夫なのでしょう。
本図は、日本橋から日本橋川の上流(西側)を眺めています。両岸に整然と立ち並ぶ倉は、各地からのさまざまな荷を保管するもので、その先には一石橋が見えています。地理的な関係は下図のようになります。

なお、江戸城の天守閣は明暦の大火(1657年3月2~4日)で焼失しており、以降も再建されていません。本図が作成されたのは1830年代であるため、本図の天守閣は北斎のサービス精神によるものでしょう。ちなみに、この明暦の大火を契機に、幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励しました。これが結果的に左官工事の奨励策となり、城郭建築で培われた技術が街づくりに転用されるようになったそうです。
お楽しみいただければ幸いです。
それでは、また!